相手の駒は見えている。ただし、それが何の駒なのかは分からない。盤面は隠されていないのに、肝心なところが読めない。
Strategoというボードゲームには、そんな面倒がある。駒の正体は持ち主にしか見えず、動きや戦いから少しずつ分かってくる。よく考えるとは、見えているものを精密に計算することだけではない。見えていないものを、どんな可能性として残すかでもある。
仕事の場面に置き換えるなら、顧客の返事を待つ時間が近いかもしれない。価格が問題なのか。社内調整に時間がかかっているのか。それとも、優先順位が変わったのか。返事がないという一つの観察から、いくつもの世界が生まれる。私たちはそのうち一つを、いつの間にか事実として扱い始める。
一つの盤面に決めつけない
Samuel Sokotaらが開発したAtaraxosは、不完全情報を扱う自己対戦学習と、着手時の探索を組み合わせたAIだ。自ら対戦して方策を学び、見えない情報を推定する別のネットワークを育てる。着手時には、ありそうな隠れた配置を複数生成し、それぞれで候補の手を試して判断を更新する。[1]
つまり、未知の駒を一つの正解で塗りつぶしてから考えるわけではない。異なる配置の可能性を扱いながら、どの手を選ぶかを考える。この順番が興味深い。知らないことは、思考を始める前に取り除くべきごみではなく、思考が扱う対象になっている。
学習にも工夫がある。研究チームは、方策を変える幅と、その変化を抑える正則化を連動させた。不完全情報のもとでは、自分の戦略が変わると相手にとっての有利な戦略も変わる。勢いよく改善しているつもりでも、同じところを回ったり、不安定になったりする。速く変わることと、変わり続けられることは同じではない。
この説明を、そのまま経営の心得にしてしまうのは雑だろう。人間の組織の変化を、この仕組みが実証したわけではない。ただ、更新する量を増やすことだけが学習の加速ではない、という見方は残る。
勝ったことと、何に勝ったか
AtaraxosはStrategoの有力選手Pim Niemeijerとの20局で、15勝1敗4分けだった。引き分けを半勝と数えた実効勝率は85%。同じ設計を、協力ゲームのHanabiやチーム戦の闘地主などにも展開している。[1]
強い結果である。一方、主評価の対戦相手は一人であり、人間は連戦の中で相手の癖を学ぶ。各対局を、独立した同じ条件のくじ引きのようには扱えない。著者もこの点を明記している。また、この研究が実証したのはゲームでの性能であって、現実の交渉や事業判断ではない。
盤上ではルールが決まっている。何が勝ちかも決まっている。さらに、速く正確なシミュレータがある。現実の仕事では、顧客が望んでいるものも、こちらが達成したいことも、途中で変わる。隠れた駒を推定する難しさと、そもそも何のゲームをしているのか分からない難しさは、別に残る。
知らないことを、置いておく場所
ここからは、この研究を読んで考えたことだ。私たちの会議にも、複数の盤面を置く場所があってよいのではないか。
「顧客は価格に不満だ」という一つの説明を磨く代わりに、「価格が問題の場合」「社内調整の場合」「優先順位が変わった場合」を並べる。そして、どの場合にも損をしにくい次の行動は何か、どの観察が得られれば一つを除けるかを考える。単なる楽観・悲観の三シナリオではなく、分からなさの中身を変えるのである。
もちろん、考えうる状況を増やすだけなら際限がない。すべての可能性を均等に扱う必要もない。大切なのは、都合のよい説明に早く閉じることと、いつまでも決めないことのあいだに、作業の形をつくることだろう。
AIに相談するときも、答えを一つ求めるだけでなく、どの前提が違えば答えが変わるのかを聞ける。前提が明るみに出れば、次に確かめることが見つかる。ただし、それは本研究で効果を検証した会議術ではない。盤面の外へ持ち出すための、こちら側の仮説だ。
知るほど、判断はよくなる。それでも、知り終わるまで判断を待てるとは限らない。未知をなくす能力だけでなく、未知を未知のまま置いて動く能力。その違いを、裏向きの駒は静かに教えている。
次の一手を選ぶとき、私たちは何を知らないままでいるのだろう。
