三つの意見が同じ方向を指している。一つは同僚、二つはAI。そのとき「みんながそう言っている」の、みんなは何人なのだろう。
多数決なら、数えればよい。けれど、判断の材料にするなら、それだけでは足りない。誰が言ったか。何を知っているか。どれくらい当たるか。同じ結論でも、背後にある情報は同じとは限らない。
私たちは助言を聞くとき、内容だけでなく、助言者も聞いている。よく知る人の慎重な一言と、画面に現れた滑らかな文章。どちらを重く受け止めるかは、その瞬間の自分にもよるだろう。AIが会議に加わると、意見の数が増えるだけでなく、この聞き方の配分も変わる。
助言に、名前をつける
Huixin Zhongらは、一般参加者60人と50人による二つのオンライン実験で、人間とAIの助言に従う仕方を調べた。参加者は模擬的な診断課題に取り組み、自分だけに与えられた情報と、人間またはAIからのものと表示された助言を組み合わせて判断する。実際の医療チームや、稼働するAIとの共同診療を観察した研究ではない。[1]
助言の正確さが等しい条件では、人間の助言のほうがAIの助言より重く扱われた。一方、情報源ごとの正確さを変えた条件では、その差は検出されなかった。両方の実験で、自分の情報は他者の助言より重く扱われていた。[1]
ここで、「人はAIを信じない」とまとめると、大事な部分が抜ける。同じ人間とAIという区別でも、条件が変われば結果が変わった。助言者への態度は、一枚の好悪の札ではなかったのである。
また、自分の情報を大切にする姿は、自律的にも見えるし、他の有用な情報を取り逃がす姿にも見える。人間が最後に判断したという事実だけでは、よい判断だったかは分からない。独立して考えることと、自分を特別扱いすることは、外から見るとよく似ている。
従う理由は、一つではない
研究者たちは、情報として役立つから助言に従うことと、人間の声を特別に重く扱うことを分けて考えている。後者を社会的な影響と解釈しているが、実験から心の中の理由を一意に決められるわけではない。人間の助言のほうが信頼できると受け止められた可能性など、別の説明も残る。
論文には「同等」という表現もある。ただし、その検定で置かれた境界は広く、小・中程度の差までないと確かめたわけではない。情報をたくさん示すと認知負荷が増えるという説明も、直接測定して証明した結果ではなく、著者の仮説だ。
こうした留保は、研究をつまらなくするものではない。むしろ、「AIの助言に人はどう反応するか」という大きすぎる問いを、条件ごとにほどいてくれる。正確さが同じと知らされている場合。正確さが異なる場合。自分の手元に別の情報がある場合。同じ「信頼」という言葉の中にも、違う仕事が詰まっている。
賛成者より、根拠の来た道
ここからは、この研究が会議の見方に残す問いである。AIを何体か呼び、全員が賛成したら安心できるだろうか。もし全員が同じ資料だけを読み、最初の案を見てから答えたのなら、声は増えても、材料はそれほど増えていないかもしれない。
反対に、一つしかない意見でも、誰も見ていなかった観察に基づいているなら、重要なことがある。「何票か」と「何を新しく知ったか」を分けて聞く。この研究が直接、複数LLMの相関を測ったわけではないが、人とAIの助言を数える場に持ち帰りたい区別だ。
たとえば、意見を集める前に各自が見た事実を短く書く。賛否を述べるときに、新しく加えた根拠を一つ示す。AIの回答にも、参照した資料と、そこから先の推測を分けてもらう。これらは本研究で検証済みの処方箋ではない。意見の独立性を見えるようにするために試せる工夫である。
そして、助言を採らなかったときにも理由が要る。自分の持つ情報のほうが強かったのか。相手の前提が違ったのか。それとも、単に自分の案を変えたくなかったのか。判断を人間に残すことが大切なら、その判断が何に動かされたかも、同じくらい大切にしたい。
会議の人数は、招待状を見れば分かる。判断を支える情報の数は、そう簡単には分からない。AIが同席する時代には、席の数よりも、意見がどこから来たかを尋ねる時間が必要になるのかもしれない。
その賛成は、新しい根拠だろうか。それとも、同じ声がもう一度聞こえただけだろうか。
