会議を開けば、アイデアが増える。AIを開いても、アイデアが増える。では、増えたアイデアの中から一つを選ぶ仕事は、どれほど楽になっただろう。
白紙を埋める苦労が減ると、仕事全体が進んだ気になる。それは間違いではない。ただ、選択肢がそろうことと、選べることは違う。レストランのメニューが立派になっても、夕食はまだ決まっていない。
Fabrizio Dell’AcquaらがP&Gで行った実験は、この違いを思い出させる。「AIはチームメートになれるか」という大きな問いを掲げながら、結果をよく見ると、チームの仕事がいくつもの仕事にほどけてくる。
一人に、もう一つの専門性が加わる
研究に参加したのは、研究開発や商業部門で働く専門職。無作為に条件を割り当てられた791人が、一日のオンライン製品開発に取り組んだ。一人で働くか、異なる部門の二人で組むか。AIを使うか、使わないか。この四つを比べている。参加者は五つの案を考え、一つを選んで具体化した。最終案は、条件を知らない専門家が評価した。[1]
一人でAIを使った人の成果は、AIを使わない二人組に匹敵した。さらに、AIなしでは研究開発職が技術面、商業職が商業面へ寄りやすかった提案が、AIを使うとより両面を含むようになった。
これは、隣の部門に問い合わせる必要がなくなった、という話ではない。提出された案のバランスが変わったのであって、その人が別分野の専門家になったわけではない。けれど、会議を招集する前に、自分の専門の外側へ案を伸ばせる。その入口が増える意味は小さくない。
考えてみれば、二人で仕事をする価値を、私たちはしばしば一括りにする。知識を補う。見落としを指摘する。迷っているときに背中を押す。ひとりでは退屈な仕事が少し楽しくなる。すべてを「協働」と呼べば便利だが、どこが変わったのかは見えにくい。
よい案をつくることと、見抜くこと
この研究で足を止めたいのは、途中の五案を調べた部分だ。AIは、生成された案の平均的な質を高めていた。一方、五案の中で最も高く評価された案を参加者自身が選んだ割合は、AIなしの二人組で約50%、AIを使う条件では約37%だった。AIを使えば選別もうまくなる、とは言えない結果である。[1]
ここから「AIは判断力を奪う」と飛ぶのも早い。選別時にどの程度AIを使ったかは確定できず、案の集まりそのものも条件によって違う。比較されているのは、同じ五案を渡された審査員の能力ではない。よりよい案が並ぶことで、見分け方が難しくなった可能性も残る。
それでも、最終成果だけでは見えない構図がある。よい候補がたくさんあれば、最良の一案を見逃しても、提出物はよくなる。成果が改善したという事実と、選ぶ過程が改善したという事実は、同じではない。
この二つを分けるだけで、AI導入の議論は少し具体的になる。「何人で何点の成果を出したか」に加えて、「どの段階で何がよくなったか」を問えるからだ。発想の支援が効いたのなら、次に整えるべきなのは、さらに案を増やす仕組みではないかもしれない。
選ばなかった案にも、仕事は残る
ここからは研究を読んだ上での考察だ。たとえば新規事業案を検討するとき、案の作成と評価を同じ対話の流れに任せると、どこから判断が始まったのか曖昧になる。気に入った案を磨くうちに、それが最もよい案だった気がしてくる。文章が整う速度と、判断の確かさが足並みをそろえてくれる保証はない。
そこで、案をつくる時間とは別に、何を基準に選ぶのかを言葉にする時間があってもよい。売れる見込みなのか、試せる速さなのか、失敗したときに得られる知識なのか。評価軸が違えば、同じ案の順位も変わる。研究の専門家評価にも、その実験固有の物差しがある。仕事の物差しは、なおさら誰かが引き受けなければならない。
選ばなかった案に短い理由を残すことも、判断の輪郭を見せる方法になりそうだ。「悪いから」ではなく、「今回の条件では、何が足りないから」。後に条件が変わったとき、その理由が使える。採用案だけが立派なファイルになり、残りがチャットの底へ沈むなら、発想の豊かさの一部はそこで終わる。
もちろん、この実験は単一企業、一日、遠隔で組まれた主に初対面のペアを扱う。長年組んだチームの暗黙知も、実際に製品を送り出す責任も、長期の学習も測ってはいない。同僚をAIに置き換えられるかという問いに、人数だけで答えることはできない。
案をつくる相手が増えたとき、選ぶ仕事まで済んだことにしていないだろうか。
